[パンフレット] 353作品

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解説、プロダクションノートはパンフレットの表記そのままで掲載していますので誤字・脱字・旧字・旧仮名づかい等があります。ご了承下さい。

<ハ行>

ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録
ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場
パーフェクト サークル
始めか終わりか
パットン大戦車軍団
ハノーバー・ストリート 哀愁の街かど
パラダイス・アーミー
針の眼
遙かなる帰郷
遙かなる戦場
バルジ大作戦
パワープレイ
ハンバーガー・ヒル
ピエロの赤い鼻
ビスマルク号を撃沈せよ!
ヒトラーかく敗れたり
ひまわり
ヒンデンブルグ
ピンク・フロイド ザ・ウォール
ファイナル・カウントダウン
ファイヤーフォックス
フィラデルフィア・エクスペリメント
風雪の太陽
フォレスト・ガンプ 一期一会
深く静かに潜航せよ
武器よさらば
不滅の守備隊
プライベート・ライアン
プラトーン
ブラス・ターゲット
ブラックホーク・ダウン
ブリキの太鼓
ブルースが聞こえる
フルメタル・ジャケット
プレシディオの男たち
平和の谷
北京の55日
ベルリン陥落
ベルリン大攻防戦
ボージェスト
冒険者
ぼくの神さま
誇り高き戦場
北極の基地 潜航大作戦
ホット・ショット
ホット・ショット2
炎628


 

ハンバーガー・ヒル

ハンバーガー・ヒル

昭和62年9月12日発行
発行所:東宝出版事業部
発行権者:日本ヘラルド映画株式会社
定価300円
A4版24P

[解説]

1969年5月10日、米101空挺師団の分遣隊がアシャウ・バレーに乗り込み、アパッチ・スノー作戦が開始された。
第187連隊第3大隊のブラボー中隊が、“937高地”と呼ばれたドン・アプ・ビアを確保するため北ベトナム正規軍と衝突。10日間の凄惨な戦闘の末、米軍は堅固な防御線の敷かれた山頂を包囲した。
この地を確保するため、第3大隊600名の出した犠牲は7割。兵士の誰かが「このヒルは、俺たち全員をミンチにしようとしている」とつぶやいたことから、そこは以後“ハンバーガー・ヒル”の名で呼ばれた……。
「プラトーン」がせきを切った第2次ベトナム戦争映画ブーム。いま、未曽有の感動と重戦車線のスケールを併せ持った作品が登場した。
「ハンバーガー・ヒル」は、若者たちが力を尽して戦った最悪の戦争についての物語である。主人公は見通しのない泥沼の戦場へ送り込まれたまだ年端もいかない14人の兵士たち。経験も浅く、敵への憎悪も無い若者たちが、戦争という恐怖のど真ん中にあっていかに戦い、いかに死んでいったか。死と背中合わせの友情と友愛の絆。「ハンバーガー・ヒル」は極眼下にぎりぎりの生存の闘いを強いられた若者たちの痛切な青春ドラマである。
「20才かそこらでベトナムを体験するというのはどんなことなのか、それを物語にしたかった」と語るのは、脚本を書き、製作も兼任するジム・カラバトソス。自身、63年から69年にかけて、ベトナムに従軍した彼にとって、処女脚本「幸福の旅路」以来、ベトナムは永遠のテーマ。
素晴らしくリアルで感動的なカラバトソスの脚本を受けて、これを映画化したのは、「戦争の犬たち」「チャンピオンズ」のジョン・アービン。69年にBBCのドキュメンタリー作家としてベトナムヘ乗り込んだアービンにとって、一番の鮮烈な記憶は「若い兵士たちが分かち合っていた、想像を絶する勇気と献身」だったという。
実際にベトナムを戦った男と、ベトナムを撮った男のコラボレーション。“事実”を伝えるのにこれほど格好の組み合わせはあるまい。
“極限の青春”を演じるために選び出されたのは、全米1000人以上のオーディションを突破した14名の演技者グループ。ディラン・マクダーモット、アンソニー・バリル、マイケル・ボートマン、ドン・チードルら、ほとんどが映画では無名にもかかわらず、圧倒的な存在感を画面に充満させてくれる。
「ジャングルでの戦闘がどんなものだったか見せつける」(=ジョン・アービン監督)ために、11週間のスケジュールでフィリピンにオール・ロケ。「ランボー/怒りの脱出」の気鋭ピーター・マクドナルドのキャメラが密度の濃い画調を作り出している。
製作は「再会の時」のマーシャ・ナサティアと「戦争の犬たち」「愛のイエントル」のラリー・ド・ワーイ。
音楽はアニマルズの60年代ヒット「朝日のない街(ここを出ていくんだ)」がうまく使われ効果を発揮する他、実際にハンバーガー・ヒルで戦ったジョセフ・コンミー退役陸軍大佐、同アルバート・ニール曹長がテクニカル・アドバイザーとして就き、リアルな画面作りに貢献している。

[プロダクション・ノート]

映画化まで──────

脚本(兼製作)のジム・カラバトソスが、“ハンバーガー・ヒル”について書こうと思い立ったのは、1969年、彼が第一騎兵師団の一員として参加していたベトナムから帰国した時だ。最初、帰還兵の問題を扱った「幸福の旅路」のオリジナル脚本を書き上げたが、何か飽きたらないものを感じていた。
そんな彼の思いを救い上げたのが、「再会の時」の製作責任者のマーシャ・ナサティアだった。彼女は彼に、本当は何を書きたいのか尋ねた。カラバトソスは、20才でベトナムを経験するということがどういうことなのか、それを物語にしたいのだと答えた。その時、ハリウッドにそんなことに耳を傾けるものはいなかっただろう。ナサティアと出会ったことがカラバトソスにとっても、この企画にとっても幸運だった。彼女は息子をベトナムへ送り出したことがあったからだ。
監督には、ドキュメンタリー作家として実際にベトナムに乗り込み、以来、彼の地で会った若い兵士たちに栄誉を与えようと熱心に肩入れしてきたジョン・アービンに白羽の矢が立てられた。そのアービンの説得で、彼と気心が通じたラリー・ド・ワーイが共同製作者として加わった。さて、こう書いてくると、いかにもこの企画が順風満帆で実現したかのような印象を受けるが、現実は決してそうではない。カラバトソスのオリジナル脚本を手にしたナサティアは、3年間さまざまな撮影所や製作会社に38度も売り込みを行なったのだ。その結果、遂にRKOが首をタテに振り、製作費を出すことになった……。

撮影準備──────

ロケ地に革命後のフィリピンが選ばれたことで、「ハンバーガー・ヒル」は世界をまたにかけることになった。ロンドンをベースにするド・ワーイ。ニューヨークに本拠を置くナサティア。軸となるスタッフはその間を縫ってイギリス、アメリカ、フィリピンで仕事を開始した。ドー・ワーイはその間の事情をこう語る。
「3つの大陸で同時進行したので、事態は一層こみ入ったものになった。スタッフや主要器材はロンドンで集められ、衣裳、小道具、特殊効果などはロサンゼルスで調達、セットはフィリピン・マニラ郊外で調達されるといった具合だ。さらにキャスティングはニューヨーク、シカゴ、ハリウッドで行なわれ、ワシントンの国防省と、マニラのフィリピン軍との間でそれぞれ撮影協力交渉が行なわれた。」
そして、そうした作業の中で、スタッフに共通して、一つの目標が形作られていった。
それは“真実”をありのままにスクリーンに再現すること……。

俳優たち──────

キャストは細心の注意を払って選ばれた。およそ2ケ月かけ、1千名の候補者の中から最終的に絞り出された14人の無名の俳優たち。彼らは本物の新兵のように、出演料からアルファベット順のビリングに至るまでまったく同等に扱われた。
演技力もさることながら、彼らに要求されたのは半端じゃない戦闘技術だ。そのためキャスト全員は、フィリピンのスビック湾にあるアメリカ海軍基地で密度の濃い基礎訓練と武器についてのコースをおさめた。
また、ハンバーガー・ヒルでの戦闘を含め、ベトナムに3度出征したアルバート・ニール曹長が、分隊レベルの戦闘について彼らを特訓した。この他、衛生兵ドク役のコートニー・B・バンスは別に一週間、テキサス州フォート・サム・ヒューストン内の医学アカデミーで知識を習得するなど、隅々まで周到な準備が張りめぐらされた。

真実を手加減なく再現するために──────

共に同じ頃、ベトナムに身を置いた監督アービンと脚本カラバトソスの共通コンセプトは、状況をリアルに伝えるということで一致していた。
マニラの東方30マイルにあるジャングルの谷。5台のキャメラが、悪夢のような光景をさまざまなショットで記録する。その中で、14名の若い俳優たちに、まるである種のスポーツのコーチのように身ぶり手ぶりで演技をつけるアービン。彼は言う。「これはベトナムで戦った一分隊の運命を描いた映画だ。超人的な勇気と尽力を求められた18才から20才までの若者たち。より大きなレベルで言うと、これはあらゆる戦争におけるあらゆる若者たちの姿を描いた作品だ。スタイルは記録映画的。ぼくは戦闘シーンを出来る限り実際のものに近づけようと努力した。」

アービンの意を受けたこの映画の徹底したリアリズム指向は、もう一人のハンバーガー・ヒル体験者ジョゼフ・コンミー大佐(退役)を軍事コンサルタントに迎えたことで、非の打ちところのないほど完壁となった。RKOのある重役によれば、「コンミーをこの作品のコンサルタントに迎えだということは、「砂漠の鬼将軍」(=ロンメル将軍の伝記)の製作でロンメルをアドバイザーに仰ぐようなものだ」という。
身長188センチ弱。3つの戦争で数々の叙勲に輝く白髪の士官ほど、この作品に対する“なぜ今?”という問いを判断するのに適切な人物もいないだろう。彼はハンバーガー・ヒルで実際に戦った旅団司令官であっただけでなく、この国の戦没者たちの眠るワシントンの国立アーリントン墓地で、ついこの間まで衛兵隊を指揮していたのだ。コンミーは言う。
「アメリカの一般市民なら、一度はあの記念碑に刻まれた5万8千(ベトナムの全戦死者)の名前を見ている。
そして彼らは今、あれはいったいどういうことだったのか知りたいと思い始めている。この映画がやろうとしているのはそれだ…」