[プロダクション・ノート]
▼ヨーロッパで44年8月1日から45年5月7日までにパットン軍は12,000の都市を解放し、291日間に1,225マイルを進み、24の河を渡り、81,500平方マイルに及ぶ領土を占領し、敵におびただしい損害を与え、何十万という捕虜を収容したのである。
彼は、停止命令さえ受けなければソ連にさきがけてベルリンを陥しいれ、プラハを手中に収めたであろう。もし、それが実現されていたら、今日の新聞はどう論評したか、興味ある問題である。
それにしても歴史はパットンに関して数々の大きな疑問符を残している。戦争は果してパットンが感じたように44年の秋に終ったであろうか。何故にパットンの第3軍はナチが降伏する寸前に前進をとめられたのであろうか。
▼68年の晩秋、オマー・N・ブラッドリー大将は製作者フランク・マッカーシーと監督フランクリン・シャフナーを連れて、パットン歴戦の地を視察した。ついで製作者と監督はスペインヘ赴き、彼等が実際に戦場で見て来た建造物や風物をロケ地のそれと合わせることになった。
元参謀総長ブラッドリー大将は、当時75歳、この映画製作の軍事顧問となった。将軍の自伝「ある軍人の物語」とラディスラス・ファラーゴの伝記「パットン、試練と勝利」に基いてこの映画の脚本が書かれた。
ブラッドリーの他にポール・D・ハンキンス将軍(退役)が技術顧問として招聘された。ハンキンス将軍は大戦中、パットンの副参謀として、モロッコを振出しに、パットンに従い、パットンがドイツで死ぬまで、パットンと浅からぬ関係のあった人である。彼はまたパットンの手記をまとめた「私が体験した戦争」と題する書物の編集と註訳をしている。後にハンキンス将軍は第8軍の参謀となり、また朝鮮戦争に2箇師団の司令官として参加した。将軍の最後の奉公はベトナム軍事援助軍の司令官を勤めたことであった。64年退役である。
▼「われわれがスペイン・ロケを必要とした理由は、そこには第二次大戦時代の兵器が真新しいままで残っていたからで、たとえアメリカに残っていても現在のアメリカ軍はそれを操作できない。それにスペイン政府が、この映画製作に全幅的援助をしてくれた」と製作者マッカーシーは言っている。
タンク、軍用トラック、その他の兵器は、完全に整備され、スペイン軍はそれを操作する兵員を提供してくれた。マッカーシーは事前にアメリカで調査したが、これらの兵器もそれを操作できる人たちも揃わなかった。
スペイン軍は、200台の色々な型の戦車を提供してくれた。シングル・ショットにこれほど数多くの戦車が使用されたことは恐らく空前の事であろう。それに軍事顧問たちが、やかましかったので、戦車には適当数の他の車輌やあらゆる種類の兵器を附随させねばならなかった。
スペイン軍は、戦車戦の大戦術家パットンの戦法が見られ、また実際にスペイン軍がそれに参加できることを非常に喜んだ。
▼製作は69年2月3日に開始された。ロケ地はスペイン・セゴビア郊外の森林地帯で、そこをバルジの戦いが行われたアルデンという想定の下にクランク・インされたのであった。バルジの戦いが行やれたのは44年で、38年ぶりのきびしい寒波に襲われた冬であった。ここで、17万6千の死傷者を出したが、その中の7万6千は連合軍側の損害であった。
▼パットンの軍が歴史的な役割を果した、つまり北へ方向転換して戦略的に重要なバストーニュの町を救出しに行く戦闘の再現はブラッドリー将軍その他顧問たちが最も推賞したものとなった。
パットンがフランスからドイツに侵入するシーンの撮影は、建造物や地形がよく似ているパンプローチで行われ、チュニジアの砂漠のシーンはアルメニアで撮影された。屋内シーンは、マドリードのセビラ撮影所で撮影された。
▼パットンがイギリスのナッツフォード村の婦人たちの前で行った問題の演説のシーンの撮影は現地ロケで行われた。パットンがサルタンから勲章を授与され、1万の兵を閲兵する豪華なシーンは、モロッコのマラケッチで、行われた。
パットンがシチリア島パレルモに入城する、シーンの撮影には3,600のスペイン兵と民間人が協力し、バストーニュ戦のシーン撮影には900のスペイン兵が参加した。
▼この映画の戦闘場面に使用するために、道具部が用意した兵器や弾薬の数量は莫大なもので、これだけの物量さえあれば、ちょっとした小国の革命ぐらい朝めし前にできるという。火力だけでも戦時の一箇大隊の火力に相当するものであった。
セット・デコレーターのデニス・パリッシュが、スペインのロケ地アルメニアで、見積ったところによると、優に一箇連隊(3,250人)を武装させることができたと云い、事実エル・ゲッター戦の再現に3,100人のエキストラに完全武装をさせたのである。小銃用だけでも空砲250,000発の弾丸を用意した。特殊効果係長アレックス・ウェルドンの兵器庫には黒色火薬の外多量のダイナマイトが用意された。
大型火器は、大砲50門、追撃砲9門、火焔放射器7で、小火器の内訳は、装甲車8挺装備した、15,30 50口径の機関銃94挺、軽機関銃65挺。
高射砲の内訳は、ドイツ88ミリ、22ミリ自動式が各4門、アメリカ90ミリと40ミリ・ボーフォース式が各4門、ドイツMG34が6門とシュマイサーが37門。その他にライフル銃は2,750挺。 |