[パンフレット] 353作品

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解説、プロダクションノートはパンフレットの表記そのままで掲載していますので誤字・脱字・旧字・旧仮名づかい等があります。ご了承下さい。

<ラ行>

ライアンの娘
雷撃命令
ライジング・サン
ラインの仮橋(2種類)
裸者と死者
ラスト・キャッスル
ラスト・サムライ
ランボー
ランボー 怒りの脱出
ランボー3 怒りのアフガン
リトル・ドラマー・ガール
掠奪戦線
リリー・マルレーン
ルシアンの青春
レニングラード攻防戦
レッド・オクトーバーを追え!
レッド・スコルピオン
レマゲン鉄橋
ローマを占領した鳩
ローリングサンダー
ロケッティア
ロベレ将軍

 

ライアンの娘

昭和51年9月18日発行
発行所:東宝株式会社事業部
発行権者:MGM
定価:200円
A4変形版20P

[解説]

 イギリスが生んだ不世出の巨匠デビッド・リーン監督が、「ドクトル・ジバゴ」
以来4年半ぶりで世に問う注目の映画である。
 第1次世界大戦中、イギリスからの独立運動が、武力蜂起にまで高まろうとしているアイルランドの、首都ダブリンに近い海辺の一寒村が舞台である。
 この反英の世相の中で、夫を敬愛しながらも、若いイギリスの守備隊長を熱愛せずにはいられない、女の業とも言うべき人妻の不倫の恋を描いて、リーン監督が、「逢びき」以来はじめて、ひたすら愛の問題に打ち込んだ、彼の代表作の1つに数えられる傑作である。
 脚本は、「ドクトル・ジバゴ」(アカデミー脚色賞)や「アラビアのロレンス」などのロバート・ボルトのオリジナルで、リーン監督と絶えず打ち合わせながら、約1年がかりで完成された。
 撮影は、「ドクトル・ジバゴ」「アラビアのロレンス」(アカデミー撮影賞)などの名手フレディー・ヤングの監督の下、アイルランドの南西部、大西洋に突出したディングル岬で行われた。
 1968年の秋、デビッド・リーンは、ロケ・ハンでディングル岬の先端に立ち、歴史の進歩の跡が少しも感じられない荒涼たる風景を見て、即座に絶好のロケ地と確信した。その時から約半年、この荒荒しい不毛の海岸に、完全なアイルランドの村が建設され、69年の2月下旬に撮影に入った。
 作曲には「ドクトル・ジバゴ」「アラビアのロレンス」でリーン監督に協力したモーリス・ジャールが当り、「イグアナの夜」のスティーブン・グライムズがプロダクション・デザインを、ロイ・ウォーカーが美術監督をつとめた。
 衣装は「欲望」「アルフレッド大王」のジョスリン・リッカーズのデザイン。編集のノーマン・サベジは「ドクトル・ジバゴ」「アラビアのロレンス」でも手腕をふるった。
 尚第2班では、「潜水艦ベターソン」「怒りの海」などのチャールズ・フレンドが監督を、「星空」のボッブ・ヒュークが撮影を担当した。
 製作者は「ロミオとジュリエット」のアンソニー・ハブロック・アラン。彼は、かつてリーン監督らと共にシネ・ギルド・プロを作り、「逢びき」「大いなる遺産」をはじめ、同監督の初期の名作の数々を生んだ有能な人である。この映画は、彼のファラウェイ・プロが、MGMのために作った、スーパー・パナビジョン、70ミリ、メトロカラー、1970年度作品である。

[プロダクション・ノート]

 「アラビアのロレンス」と「ドクトル・ジバゴ」に次ぐ新しい作品の打ち合わせで、デビッド・リーンとロバート・ボルトがまた顔を合わせた時、2人のアイディアは期せずして一致していた。
 即ち、次回作は、いわゆる〈大スペクタクル〉でない映画を撮ろうということであった。
 「我々は、感動的で個人的な関心をもとにした単純で内面的な物語を探した。」と、リーンは言う。「しかしもちろん、そこにスペクタクル的な要素が入ることはやむを得ないだろう、それが筋書の必然によるものならば。だが、そういう物語を持つ原作を我々は決して発見しなかった。よし、オリジナルで行こう。それはしかし容易になし得る仕事ではなかった。」
 それ以来、10カ月の間、デビッド・リーンとロバート・ボルトの2人は、この厳しい要求に応ずべき物語を作りあげるために、休みなく働いた。
 リーンは言う──
 「我々は、単純な三角関係のシチュエーションを設置するための暗い、閉鎖的な枠を欲していたのだ。それは2人の男性と1人の女性との三角関係の物語であった。我々はまずそれをヴィクトリア朝時代のインド諸島を背景にしようとしたが、英国の貴族社会にそういう話を結びつけることは不可能であったので、我々はその舞台を1916年、独立運動直後のアイルランド西海岸の貧しい村に置くことにした。我々の創ったこの物語は、何よりもまず、内面的で親しみのあるものであることに変りはない。もしそこに少しでも偉大さがあるとするならば、それは登場人物たちと、彼等の持つ諸感動そのものが偉大であるにすぎないのである。」
 こうしてリーンとボルトの2人は、1968年の10月、ドラマの舞台となるアイルランド西海岸へ、シナリオ・ハンティングに赴いたのであった。そこで彼らはあらゆる意味で、海岸という海岸をすべて探索しつくした。
 そうしたある日、ディングル半島の先端にある高い丘の上に立った2人は、たちまち、この荒涼たる土地こそが、彼等の新しいドラマの舞台である架空の寒村キラリーに、まったくピッタリであるということを了解し合ったのである。
 そこは、人里離れたヘンピな場所であり、山岳地帯で、沼地と不毛の荒野があり、花崗岩の崖がそびえていた。そこには、目に見える貧困が支配していた。1916年以降、この地帯に少しでも進歩のあった兆候は何もないのであった。
 リーンは、キラリーはオープン・セットなどによって映画を撮りたいと思ってはいなかった。キラリーは漆喰いや布などで作られた町であってはならず、そこに住む人達が数世紀にわたって作りあげてきた実際の家屋や納屋がなければならなかった。石や、スレートや、タールや、草ぶき屋根などが、この村に、久しい大西洋の強風に耐えて、たっていたのである。
 彼が決心してから3週間としないうちに、200人のアイルランド人の労働者を雇い、ドラマに必要な40にも及ぶ建造物をつくりあげることに専念した。家や、店や、学校や、教会や、大衆酒場が出来上って行った。800トンに及ぶ花崗岩や御影石や他の粗い石などが、丘を越え、汚いトラックでこの小さな貧しい漁村に運ばれてきた。村中がセメント・ミキサー、ダンプ、トラック、建物の骨組みなどでゴタゴタになった。1969年の初めに、キラリーの村は完成した。